1999年3月30日〜4月4日
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肥薩線観光案内パンフレット(PDFファイル、1.6MB<-要注意)
1日目
岐阜−京都−ムーンライト九州−{車中泊}
2日目
−ムーンライト九州−博多−篠栗線、筑豊本線−飯塚−筑豊本線−直方−平成筑豊鉄道伊田線−田川伊田=徒歩=一本松−日田彦山線−日田−湯布院−ゆふ101号−大分−にちりんシーガイア22号−小倉−南小倉
3日目
南小倉−小倉−門司港 門司港、下関散策 門司港−小倉−南小倉
4日目
南小倉−小倉−にちりん3号−宮崎−えびの4号−人吉−えびの5号−真幸−大畑−えびの6号−熊本
5日目
熊本−あそ1号−阿蘇=バス=阿蘇山西=バス=阿蘇−立野−あそ3号−大分−ソニック22号−小倉−南小倉
6日目
南小倉−小倉−のぞみ18号−名古屋−岐阜
乗車日 | 乗車駅 | 下車駅 | 乗車駅発 | 下車時刻 | 種別 | 愛称 | 列車番号 | 車両形式、両数 | 備考 |
3/30 (火) |
岐阜 | 米原 | _ | _ | 快速 | _ | _ | 117系4両 | _ |
米原 | 京都 | _ | _ | 新快速 | _ | _ | 221系8両 | _ | |
京都 | 博多 | 21:32 | 7:27 | 快速 | ムーンライト九州 | 9231 | EF65基本番台(京都−下関?)+14系6両 | リゾート改造車、向日町車 | |
3/31 (水) |
博多 | 飯塚 | 8:42 | 9:31 | 普通 | _ | 2624D | キハ200系?2両 | _ |
飯塚 | 直方 | 10:28 | 10:50 | 普通 | _ | 1636D | 2両 | _ | |
直方 | 田川伊田 | 11:47 | 12:20 | 普通 | _ | 2221D | 1両 | 平成筑豊鉄道 | |
一本松 | 日田 | 14:04 | 15:32 | 普通 | _ | 949D | 2両 | _ | |
日田 | 湯布院 | 15:39 | 16:56 | 普通 | _ | 1859D | キハ125 1両(ワンマン) | _ | |
湯布院 | 大分 | 17:25 | 18:09 | 特急 | ゆふ101号 | 1071D | キハ185系3両 | _ | |
大分 | 小倉 | 18:25 | 20:02 | 特急 | にちりんシーガイア22号 | 5022M | 787系? 6両 | つばめ用車両 | |
4/1 (木) |
小倉 | 門司港 | _ | _ | _ | _ | _ | 813? | _ |
門司港 | 小倉 | 17:18 | 17:34 | 普通 | _ | 2659 | DD51+50系 | _ | |
4/2 (金) |
小倉 | 宮崎 | 8:01 | 13:00 | 特急 | にちりん3号 | 5003M | 485系4両 | _ |
宮崎 | 人吉 | 13:28 | 16:46 | 急行(都城まで快速) | えびの4号 | 1914D(都城まで3843D) | キハ58+キハ65 | シートグレードアップ | |
人吉 | 真幸 | 17:06 | 17:46 | 急行 | えびの5号 | 1915D | キハ58+キハ65 | シートグレードアップ | |
真幸 | 大畑 | 17:48 | 18:20 | 普通 | _ | 1278D | キハ31 1両(ワンマン) | 一部お座敷 | |
大畑 | 熊本 | 18:54 | 20:36 | 急行 | えびの6号 | 1916D | キハ58+キハ65 | シートグレードアップ | |
4/3 (土) |
熊本 | 阿蘇 | 8:31 | 9:29 | 特急 | あそ1号 | 71D | キハ185系4両 | 1両増結 |
阿蘇 | 立野 | 13:06 | 13:33 | 普通 | _ | 1434D | キハ31 1両+キハ147? 2両 | _ | |
立野 | 大分 | 13:35 | 15:42 | 特急 | あそ3号 | 73D | キハ185系3両 | _ | |
大分 | 小倉 | 16:05 | 17:21 | 特急 | ソニック22号 | 3022M | 883系5両 | _ | |
4/4 (日) |
小倉 | 名古屋 | 12:52 | 15:46 | 特急? | のぞみ18号 | 18A | 500系16両 | _ |
名古屋 | 岐阜 | 16:07 | 16:25 | 新快速 | _ | 1149F | 311系4両 | _ |
周遊切符
ゆき 岐阜→北九州市内 学割 \6,930
ゾーン券 九州ゾーン \15,000
かえり 北九州市内→岐阜(新幹線 名古屋経由)
学割 \7,530
ムーンライト九州 指定席券 \510
新幹線特急券(のぞみ) 小倉→名古屋 \7,700
平成筑豊鉄道乗車券 直方→田川伊田 \370
バス 阿蘇駅前―阿蘇山西口 \620 * 2(往復)
2月になり、大学も春休みに入った頃だったか、高校の友達から電話があり、九州の同じ高校の友達の下宿に遊びに行こうと誘われた。このときはちょうどバイトを始めたときで、時間はあまりなかったけど、お金の方は何とかなりそうだったのでいくことにした。しかし、その後その一緒にいくことにした友達からいけなくなったとの連絡があり、一人でいくことにした。
九州の友達の下宿は日豊本線南小倉駅の近くというわりと便利なところにあり、その友達の家に泊めてもらうことでかなり安上がりの旅行ができそうであった。
目的はその九州の友達に会うことのほかは直前まではっきり決めていなかったのだが、最終的に筑豊の廃線跡巡り(といっても車は使わずに駅近くを歩いたりするだけだが)、肥薩線のループ、スイッチバック巡り、豊肥本線の立野のスイッチバックと急勾配体験の3つとした。
出発日はバイトの関係や九州の友達の都合もあるので、最初にいく予定にしていた3月30日くらいにしようと決めたのだが、バイトが忙しかったこともあり、計画はなかなか進まず、どんどん出発予定日が近づいてきた。
まずどの切符を使うか決めなければならない。それまでは、2泊3日程度の旅行を考えていたのだが、ここで迷いが生じた。どうせ九州という遠くに行くのだから、往復の交通費もかなりかかるし行きたいところもいろいろあるので、もう少し長期間の旅行にしたいと思ったのだ。それまでは周遊切符の福岡ゾーンを使おうかと考えていたが、この切符だとかなり行動範囲が狭くなってしまい、この範囲では余り九州らしいところに行けないように思った。(どのようなところを九州らしいと思うかは人によって違うでしょうが、僕にとって九州らしいところといえば阿蘇山等の内陸部です)そして、周遊切符には九州ゾーンというものもある。これにすれば九州全域を回ることができるし、九州には博多−西鹿児島、博多−南宮崎(−宮崎空港)にそれぞれ夜行特急列車が走っているので、これを使って宿代を浮かすこともできると思い、福岡ゾーンに比べると値段的にはかなり高くなってしまうがせっかくの機会だからと思い切って九州ゾーン券を使うことにした。青春18切符を使うという選択肢もあったが、特急が利用できないため、かなり行動に制約が出てしまうためやめておいた。
主な持ち物としては、大型時刻表、小型カメラ(一般的なカメラのこと)、着替え、参考にした本といったもの。本当は一眼レフカメラを持っていきたかったのだが、荷物が増えてしまうので断念した。でも後から考えるとやっぱり持っていった方が良かったかもしれないと思っている。大型時刻表もかなり重くて荷物になるのだが、今までの経験からもかなり役に立つことが多いので持っていった。理想としては時刻表と参考情報をインストールしたノートパソコンとデジタルカメラという組み合わせで行きたいのだが、この組み合わせで旅行に行けるのはいつの日になることやら。
午後に家を出発し、バスで岐阜駅に向かった。まだ切符を購入していなかったので岐阜駅で周遊切符の九州ゾーン券と往復の乗車券、帰りののぞみの特急券を買う。本当は行きのムーンライト九州の指定席券も買いたかったのだが、満席とのことで買えなかった。
岐阜から京都までの電車は特に決めていなかったので、適当に来た電車に乗った。いつも乗っている117系近郊用車両だった。米原行き快速はたいていこの車両である。車両はいつも乗っている車両だが、いつも利用しているのは岐阜・名古屋間で、今日はいつもは使っていない区間なので早速景色を楽し見ながら過ごした。米原に着く頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。
米原では、普通列車にちょうど接続するようなダイヤになっているが、僕は後から来る新快速に乗ることにする。この新快速は京都で普通を追い越すダイヤなのでどちらに乗っても京都に着く時間は変わらないので、車両が良く、すっ飛ばしてくれて気分の良い新快速を選んだ訳だ。ちなみに普通列車は113系だったと記憶している。
米原からの新快速は確か221系。最新の223系1000番台ではなかったのは少し残念な気がしたが、まあ仕方がない。外はすっかり暗くなってしまっているので景色を楽しむこともできず、時刻表を広げたりして今後の予定を考える。
京都に着いたのはムーンライト九州の入線(21:00)の1時間少し前だったと思います。とりあえず窓口に行ってムーンライトの空席が出ていないか調べてもらう。そしたら幸運なことに喫煙席なら空席があるとのことだったので早速発券してもらった。もし空席がなければ自由席の席取りのために早めにホームに行かなければならないと思っていたのだが、これで余裕ができたので食堂街でゆっくり夕食を食べることができた。
夕食をとった後20:50くらいにホームに行くと、
禁煙自由席車の部分に15人ほど、喫煙自由席車の部分には7,8人程度の列ができていた。思ったほど並んでいる人は多くなく、列車が入線して並んでいた人が乗り込んだあとでもまだ窓側の席でも取れる状況であった。でも発車が近くなってくるとさすがに60%から70%位の乗車率にはなっていた。
程なくして大阪側からEF65にひかれた列車が入線してきた。ホームに停車後、機関車の付け替えのために10分以上待たされ、ようやくドアが開く。残念ながら機関車にはヘッドマークは付いていなかった(と思った)けど、客車側はヘッドマーク、テールマーク、乗降口の手差しサボともしっかり付いていた。車両も改造を加えてある車両で、シートピッチもわりと広く、思っていたより良い列車だと思った。これから九州に行くときには積極的に利用しようと思う。
指定席車は京都を発車した時点ではわりとすいていたのだが、大阪などでかなりの人が乗ってきた。他の車両に出歩いて見てきてはいないので推測だが、最終的な乗車率は70から80%程度ではないかと思う。ただ、僕の乗っていた4号車だけはなぜか空いていて50%弱だった。しかしこの乗車率で指定券が売り切れというのはどういうことなのだろう。寝転がるために1人で2つの席をとったりしている人がいるのではないかと思った。乗らなくなったけど大した金額ではないのでキャンセルしなかったりする人も多いのではないかと思う。
客車と言うこともあり、車両的には静かでなかなか快適だったのだが、僕が乗っていた車両にアジア系の外国人グループが乗っていて大声で話しているのには困った。グループの中に1人日本語が分かり、マナーも解っているらしい人がいて時々注意しているのだが、そのときは静かになってもまたすぐうるさくなってくる。乗客が車掌に行って注意してもらったのだが、これも効果があったのはしばらくの間だけでまた時間がたつとうるさくなってくるのには参った。岡山を出て車内が減光された頃やっと寝込んでくれて静かになった。しかし岡山発は0:23でかなり遅い。姫路を出たあたり(23:20)で減光してくれるともっと良かったと思う。
2日目はムーンライト九州の車中から始まった。夜中も時々起きていたので、どのあたりで起きたと言うことはないが、博多到着の15分前くらいまではうとうとを繰り返して(どう書いて良いのかよくわからないが)「一応起きてはいるのだけれどもう少し寝ていたいから横になっている」といった気分を楽しんだ。九州に入ってからは、この列車の博多到着は7:27とこの種の列車としてはうれしいくらい遅いことで各駅ではもう朝の通勤時間帯となっていて、こちらの列車はその通勤時間帯の過密ダイヤを縫うようにして高速で走ったり駅で後続の列車を待避したり、あるいは前の列車に付いていくように走ったり止まったりを繰り返しながら博多に向かっていった。
博多に着いてからは、まず一通り駅の中をぶらぶらした後駅の喫茶店で朝食をとりながら今日の予定を考えた。筑豊廃線跡巡りをすることと、行ってみたい場所などは決めてあったが、詳しい行程はここで決めた。
早速決めた予定に従い、篠栗線に乗る。この線が幹線扱いなのを前から不思議に思っていたので実際の状況はどうなのかを観察することにする。僕の乗ったのは2両編成のディーゼルカー。乗客は少々立ち客が出る程度だった。通勤時間帯であるが、都市部から離れていく方向の列車なのでそれほど混雑はしないのだろう。途中の駅では、博多行きの列車と何度も交換をした。6両ほどつないでいた列車もあったと思う。電化工事も行われていて、単線にしては利用客はかなり多そうである。この程度の輸送があれば幹線扱いになるのも納得できる。
しばらくは工場地帯や住宅地を走っていたが、篠栗を過ぎたあたりから山の中に入っていった。景色は一気に変わり、V字谷の谷の中腹にへばりつくような感じで線路が引かれている。かなり長いトンネルもあった。
桂川(けいせん)は筑豊本線と篠栗線のジャンクション駅だが、田圃の中といった感じのところにあり、大したことはないなという感じだった。実際時刻表を見ても桂川を始発、終着とする列車はないようだ。ここから列車は筑豊本線にはいる。
筑豊本線は昔石炭輸送で栄えた線で、本線と名乗ることからも解るようにいくつもの支線があり、多くの石炭列車が走っていた(そうである)。しかし現在ではその筑豊炭田も閉鎖され(確かもう閉鎖されていたはず・・違ってたらクレームをお願いします)、多くの支線が役目を終えて廃止され、筑豊本線自体もその輸送能力を持て余しているのが現状である。
桂川から飯塚までは単線だった。筑豊本線は非電化複線だと思っていたが、複線になるのは飯塚からであった。また、篠栗線の列車は桂川から筑豊本線に乗り入れている関係もあり、篠栗線と平行して電化工事が行われていた。
飯塚で途中下車をする。この駅は昭和63年に廃止された上山田線が分岐していた駅である。駅構内はかなり広く、多くの側線があったが、使われているのはホームに接する本線のみで、他の線はポイントも取り払われてただ放置されているのみであった。駅から出て、上山田線が分岐していた桂川方へ歩く。上山田線は飯塚駅から1Kmほど筑豊本線にそって併走していたようで、筑豊本線の隣に明らかに線路が取り払われた跡がある。しばらくいくと廃線跡はゆっくり左にカーブして筑豊本線から離れていく。その先は道路になっていて廃線跡は道路に吸い込まれてしまっているが、少し先に平恒(ひらつね)駅跡があるということだったので行ってみた。しかしホームの跡ともとれるものは発見したがはっきりせず、昔のことを良く知っていそうなお年寄りも見あたらなかったうえ、ここまで歩いてくるのに予定より時間がかかってしまい、すでに乗る予定だった列車にはとても間に合わず、その次の列車にもぎりぎりという状況だったため、それ以上の捜索は諦めて引き返すことにした。
飯塚を出て、次の目的地である直方へ向かう。飯塚から先は各駅とも昔の反映が色濃く残っていて、非常に広い構内にかつて貨物用測線が何本も引かれていたのであろう広大なスペースが草蒸したまま放置されていた。ホームも2面3線中線付き(でいいのかな?)という配線の駅ばかりだったが、多くの駅でポイントが撤去されていて使っているのは本線のみという状況で、中線は撤去されている駅もあった。
直方は、さすがに石炭輸送時代の拠点駅だけあり、相当な広さであった。駅に着くかなり手前から駅構内に入り、ポイントをいくつも超えていく。この駅だけは数ある側線群は健在で、本線へのポイントも残っているようでまだ使用可能なように見えた(余りしっかり見ていなかったので間違っているかも)。この広大な側線群に列車が並ぶ姿を見てみたい気がするが、そんな日は来るのだろうか?ここで車両展示会でもして欲しいと思った。
ここで駅弁を食べしばらく時間をつぶした後、平成筑豊鉄道で田川伊田に向かう。今回乗車した直方〜田川伊田間は元国鉄伊田線で、国鉄時代のまま非電化複線で運行されている。車両は想像・・と言うよりは期待と違いロングシート。乗客はシートが80%ほど埋まるくらいであり、僕の想像よりも多かった。後で知ったが、平成筑豊鉄道は、国鉄の赤字による第3セクターへの転換線の中でも後期に転換されたもので、転換前でも経営努力次第では何とか自力運営のできる程度の利用者数はあった線で、今までは黒字経営を続けてきた数少ない第3セクターであった。途中駅での乗降もわりと多く、地元住民の足として利用されていることがよくわかった。途中いくつかの駅に止まったが、国鉄時代のだだっ広い構内に古ぼけた駅舎の駅と、平成筑豊鉄道になってから作られた短いホームに駅舎もないような駅が好対照であった。途中の金田は、平成筑豊鉄道の本社や車庫のある拠点駅で、広い構内にレールバスが何両か留置されていた。しかし貨物時代の広い構内は今の平成筑豊鉄道には持て余し気味に思えた。
田川伊田に到着。ここから元添田(そえだ)線(香春〜今任〜添田、当時一本松駅はなかった)の廃線跡と平成筑豊鉄道田川線(元国鉄田川線)との立体交差部分を見に行く。線路に沿って歩き始めると線路が単線であることに気付く。日田彦山線と田川線は田川伊田駅からしばらくの間同じ線路を共有しているのであった。
添田線の経緯を少し詳しく書くと、大正4年に東小倉〜上添田(現在の添田)間が小倉鉄道により開業したものが昭和18年に国有化され、添田線(第1次)と命名される。昭和31年に彦山〜大行司間の開通で東小倉〜添田〜(田川線)〜彦山〜大行司〜(彦山線)〜彦山〜夜明(久大線)と連続し日田線と改称。その後、元小倉鉄道の東部に相当する東小倉〜水町信号場は、日豊本線城野〜水町信号場の短絡線が昭和31年に完成したので貨物化され、昭和35年限りで全廃。一方、 日田線の経路は人口豊富な田川市を経由するため、現一本松駅付近から田川線への短絡線を建設し、田川線の伊田、後藤寺を経由して添田で合流することになる。昭和35年から使用を開始し、線名も日田線から田川線の一部も含めて日田彦山線となった。日田彦山線からはずされた香春〜今任〜添田の在来線は添田線(第2次)と命名されたが、第1次特定地方交通線の対象になって昭和60年3月31日限りで廃止された。【鉄道廃線跡を歩くXより省略引用】
田川伊田から一本松方へ日田彦山線の築堤の脇を歩く。だんだん地面が高くなり、築堤と同レベルになったところで平成筑豊鉄道田川線が分かれていた。なお、分類上は田川線が分かれるのだが、実際は上記の経緯により日田彦山線の方が大きくカーブして分かれていた。この地点より、目的の旧添田線の立体交差を見ることができた。添田線の田川線を乗り越している部分に上ってみた。一本松方からほぼまっすぐの築堤がだんだん高くなってきているのがわかる。線路跡は田川線を乗り越したところでぷっつりととぎれ、その向こうは道路になっていた。田川伊田には戻らず、一本松駅へと向かう。線路に沿っていきたかったが人が通れそうな道はなく、少し迂回することになってしまった。草蒸した築堤を強引に進むという方法もあったのだが、わりと距離があったのでやめておいた。おかげでまた予定の列車に乗り遅れてしまった。一本松駅のすぐ手前で添田線跡と現日田彦山線の路盤が合流していた。参考文献の「鉄道廃線跡を歩くX」の取材時点(1997年?)ではまだ分岐点に線路が残っていたそうだが僕がいった時にはもう線路はなくなっていた。
次の列車まで一本松駅で45分ほど時間をつぶす羽目になる。大きな駅ではないので周りも大したものはなく、退屈だった。一本松14:04の日田行きに乗る。乗った時点では終点まで乗り通そうか途中添田あたりで降りようか迷っていたのだが、この後の乗り継ぎを考えると途中下車する時間はないことがわかり、渋々乗り通す羽目になった。一本前の一本松13:09に間に合っていれば添田で途中下車できただけに残念だった。ちなみに添田は旧添田線と日田彦山線の合流点で、合流点に新たにホームが設けられたため、駅舎とホームが100mほど離れている。構内の添田線だった線路(日田彦山線とは別の方向に延びている)はまだ残っていたが、その先はよくわからなくなってしまっていた。
また添田の他に、豊前川崎(ぶぜんかわさき)では旧上山田線が合流し、油須原(ゆすばる)線(未成線)が分岐していた。なお、油須原線開通の暁には漆生(うるしお)〜(旧漆生線)〜嘉穂(かほ)信号場〜(上山田線と併用)〜上山田〜豊前川崎〜大任(おおとう)(添田線と接続)〜油須原が油須原線となる予定だったらしい。まだ一部は工事が完了していなかったくらいだからかなり新しい線で、かなり高規格で作られていたと思われ、惜しいことをしたと思う。まあ石炭輸送を目的として計画された線で、完成していても利用者はなかっただろうからやむ終えないことだが。文献には上山田線の合流点は豊前川崎駅の200mほど手前で、併走区間の路盤も残っているとあったが、列車の中からは確認できなかった。油須原線の分岐点は豊前川崎から1.5kmほど行ったところにある。この分岐点は車内から確認できた。それまで左右とも家並み等が続いていたのが急に左側に草蒸した荒れ地が広がり線路跡であろう事は容易に推測できた。小川を渡っていたと思われる短い橋(と言うほどでもないが・・)も見えた。駅から近ければ行ってみたかったと思う。
この後、日田で列車を乗り継ぎ、湯布院へと向かう。日田からの列車はキハ125単行のワンマン列車で、外観、内装などは比較的新しかったが、運転席の設備は大分古そうだった。ブレーキはいったん解除してかけ直すといったようなことをやっていて、かなり大変そうだった。おかげで停止位置もかなりずれていた。「ゆふいんの森」などの豪華特急が走ってはいるが、R300のカーブが次々にあり、勾配も25‰(パーミル、1‰は1000メートル行って1メートル上がる)が多くたまにR250や30‰勾配などもあってかなり大変な線形だとわかった。閉塞方式も遠方信号機のある特殊自動閉塞で、特急に追い越されるときなど長時間停車が必要で大変だと思った。
湯布院で途中下車し、駅前の土産物店を見た後「ゆふ101号」で大分へ向かう。湯布院始発だけあり車内はがらがら、一番前の特等席でゆっくり前面展望を楽しめた。最近前方が見えない特急が増えているが、やはり鉄道ファンにとっては前面展望は非常に重要なので、できるだけ展望を考慮して欲しいと思う。
大分からは「にちりんシーガイア22号」で小倉へ。この列車はつばめ用に作られた787系車両でビュッフェ等も連結している。車内は航空機のような落ち着いた雰囲気になっていた。しかし車両にTSUBAMEと書いてしまうのはやめた方がよいのではないかと思う。このように他の種類の列車に充当したときにおかしくなってしまう。車両のせいもあるだろうが乗車率はかなり高く、大分発車時点で自由席はほぼ満席だった。しばらく走るとあたりは暗くなり、車窓の風景も見えなくなってしまった。
3日目は宿を提供してくれた友達と一緒に近くの門司港、下関を見て回ることになった。まず小倉から門司港へ向かう。のった列車は忘れてしまったが、新型の赤い電車だった。広大な門司駅を抜け、鹿児島本線の起点駅である門司港へ。有名な門司港駅の駅舎を見てきた。写真では何度も見たことがあったが、駅の創りと言い、駅前の噴水と言い、何とも良い風情を漂わせていた。九州の玄関口であった当時の雰囲気が良く伝わってきた。門司港は門司港レトロとして有名な観光スポットになっていて、見所満載。対岸の下関とあわせれば1日かけて楽しめる。九州に行ったとき余裕があれば是非立ち寄ってみてほしい。
門司港駅から更に港に向かって続いている線路伝いに歩いていくと、JR貨物外浜駅と書かれた建物があった。建物の向こうには数本の線路がしかれていたが約半分は草蒸していてほとんど使われていないのではないかと思われた。留置してある車両もなく、なんだか寂れている感じだった。そしてこの駅から更に単線になった線路が岸壁まで続いているようだったが、トンネルに入ってしまっていて先端は確認できなかった。
この後、人道トンネルをくぐって下関側にわたり、火の山にのぼってきた。関門海峡を見渡すことができ、なかなか良かった。戻りは関門トンネルも考えたが、連絡船があったのでこちらで戻ってきた。
そして門司港駅から小倉に戻る。戻りの列車はわざと1本遅らし、DD51+50系の客車列車を選んだ。本当は筑豊線や久大線で乗りたかったが機会がなかったのでここで巡り会えてうれしかった。5両ほどつないでいたが先頭車両に乗ったので車内はがらがらであった。まあわざわざ頭端式ホームの端まで歩いて先頭車両に乗るのは鉄道ファンくらいだろう。
4日目は鹿児島県、宮崎県、熊本県にをまたがる山中を走る肥薩線が目的地。ループ線の途中にスイッチバック形式で作られている大畑駅、更に別のスイッチバック駅の真幸駅があることでファンの間ではかなり有名な路線である。小倉から肥薩線に行くためには九州の端から端へ移動するようなもので、かなりの時間がかかる。はじめは前に書いた夜行を利用しようかと思っていたのだが、夜行では移動中景色を楽しむことはできないし、夜行で鹿児島や宮崎に行ったとしてもそこで充分な時間はとれないし、やっぱり夜行は疲れそうなので今回は朝早めに出発することにして昼間の特急を利用した。
小倉8:01発の「にちりん3号」に乗り込む。宮崎まで行く特急としてはこの前に「にちりん1号」もあるのだが、乗り継ぎを考えると3号でも大丈夫だとわかったのでこの列車にした。でも後でよく考えると1号に乗っておけば「しんぺい」に乗ることができたのである。時刻表を見ると吉松〜人吉に「いさぶろう」「しんぺい」という愛称の付いた普通列車が走っていることに気付く。なぜこの列車だけが愛称が着いているのか疑問には思ったのだが、僕はこの旅行の時点ではどのような列車なのか知らなかった。しかし後で知ったところによると、この列車は観光客用に現地の方言で車窓の案内をしてくれるらしい。このことを知っていればこの列車に乗ることを優先して計画を立てることができただけに残念である。事前の下調べを充分にせず行き当たりばったりの計画をしたつけがまわってきてしまった。
にちりんは今や年代物となりつつある485系の4両編成。ちょっと意外な4両という短編成にも関わらず乗車率は50%程度か。はっきりは覚えていないが前々日の「にちりんシーガイア」に比べるとかなり低い乗車率であった。外観こそ真っ赤に塗り直されているが内装はほとんど手を加えられていないようで、同じ路線を走る「ソニック」や「にちりんシーガイア」に比べ明らかにグレードが落ちるため、乗車率に大きな差が出るのもやむを得ないところであると思う。大分に着く頃には乗車率は更に下がっていて、この先どうなるかと少し心配であったが、延岡を過ぎたあたりからかなりの数の乗車がある。しかも降りる人はほとんどいないため宮崎に着いたときには80%位の乗車率になっていた。これはかなり意外だったのだが宮崎空港のおかげだろうか。
宮崎で昼食用の駅弁を買う。乗り継ぎの列車の出発は到着の28分後でわりと時間はあったのだが駅の写真を撮ったりといろいろ動き回っていたら出発時間になってしまい車内で食べることになってしまった。しかしここからの列車、急行「えびの4号」(正確には都城までは快速)はキハ58+キハ65という年代物と言っていい車両。シートはシートピッチがグリーン車並に広く、足置きもある豪華なものに取り替えられ、簡易テーブルも付いていたが乗り心地まではどうにもならずかなり揺れる。幹線とはいえ線形もそんなに良くないのでこの状態で駅弁を食べるのはかなり大変である。ポイントの通過や急なカーブに注意しながら食べる羽目になった。しかしつい油断してカーブの揺れで弁当をこぼしてしまった。やはり急行で弁当を食べるのは無理なことなのだろうか。
都城から吉都線に入る。するととたんにスピードが上がり、えびの高原を軽快にとばす。勾配、曲線ともそれほど厳しくなく、線形は日豊本線よりいいようだ。今まで窓は半分以上開けていても余り風は入ってこなかったのに、ほんの少し窓を開けただけでびゅんびゅんと風が吹き込んでくる。旧型車両だが窓が開けられると言うのは特急とは違った旅の楽しさがあって良いと思う。吉都線ではこの「えびの」が最も優等列車であり、優先してダイヤが組まれていることもあるのだろうが、吉松に到着するまでスピードは落ちなかった。
吉松からは目的の肥薩線に入る。肥薩線ははじめ鹿児島本線として建設された線で、日本列島の大動脈の一部であった。後に海沿いを走る現在線ができて、山の中を走る旧線は肥薩線と名前を変えて現在に至っているが、ホームの長さはそれほどでもないが線路の有効長はかなり長いことや、行き違いに必要な2線以外にもう2〜3本の側線を持っている駅がほとんどであることが昔の名残として残っている。
吉松から人吉までは山越えの区間であり、急勾配と急カーブが続き、エンジン音は重く響くがスピードは全くあがらない。駅間距離もかなり長く、なかなか次の駅に着かない。やっとスイッチバックの真幸駅に到着。駅にはファンらしい人が1人待っていて、こちらの列車をカメラに収めてから乗り込んできた。とりあえず目的の区間をのり通し人吉まで行くことにしてあるので僕はそのまま車内に。列車は逆方向に出発し、いったん引き上げ線に入ってから再度向きを変えて出発する。かなりの標高に達していて時々遙か麓までが見渡せるすばらしい場所を通る。このあたりからの眺めはすばらしいものがあると聞いていたがなるほどと思った。矢岳駅は、行き違い設備の跡ははっきり残っていたがレールは撤去され、行き違いはできなくなっていた。構内にはかつてここで活躍していたのであろう蒸気機関車が展示してあり、一度見ておきたかったのだがいかんせん列車の本数が少なく、希望は叶わなかった。このあたりは県境越え区間であり、利用者はかなり少ないだろうし実際そうだったからやむ終えないのだろうが、もう少し列車本数が多いと助かるのにと思う。矢岳を出てしばらく進むといよいよループに差し掛かる。しかしループと言っても完全に同じ方向に同じ半径でカーブを描いているわけではなく、直線になったり反対方向に少しカーブしたりするためどこからがループなのかよくわからない。結局よくわからないうちに大畑に着いてしまった。列車は一端引き上げ線に停車し、バックでゆっくりホームに侵入する。そしてしばらく停車した後また向きを変えて出発する。大畑駅はループの途中にあるから、まだループは続いているのだがやはりいまいちループという感じがしない。そうこうしているうちにいつの間にか両側に家並みが立ち並び出す。程なく右側からくまがわ鉄道(旧国鉄湯前線)の線路がよってきて併走しだし、人吉に到着する。
人吉からはまた「えびの5号」で今来た道を折り返す。今度は運転席の後ろのデッキに陣取り、前方を眺める。何とかしてループの開始地点を知りたかったのだが、結局わからなかった。しかも悪いことに雨が降り出してきた。前日の天気予報では鹿児島地方はずっと雨という予報だったからこのような山間部で今まで降らなかっただけでも幸運だったのだが、とうとう予報通りになってしまったという感じで少し落胆する。仲間と思われるおじさんがいてずっと同じようにデッキから前方を眺めていた。大畑、矢岳を過ぎ、真幸に停車。真幸で降りたのは僕と前記のおじさんの2人だった。
結構雨が強かったため撮影は断念し、ホームの反対側に停車しているキハ31単行ワンマンの普通列車に駆け寄る。しかしドアが開かない。半自動かと思ってドアの横のボタンを押してみてもやっぱり開かない。もたついているとやっと開いた。運転士が僕らが乗り換えることに気付くのが遅かったらしい。乗ってみると先客はゼロ。この列車は吉松発人吉行きでこの後も誰も乗ってこなかったから今日は僕らが唯一の客であった。僕らがいなかったら運転士は1人寂しく山中を車両回送しなくてはならなかったところである。一端引き上げ線に停車し、運転手はハンドル?を持って逆サイドの運転席まで移動する。車掌のいる列車ではバックは車掌が安全を確認するのだが、ワンマンでは安全を確認する人がいないので運転手がいちいち運転席を移動しなくてはならない。なかなか大変である。おじさんが運転席の隣に置いてあったパンフレットを発見。運転士に聞いて僕の分も持ってきてくれる。見ると肥薩線の案内パンフレットで、ループ線等の紹介が分かり易く書いてあった。おそらくこの車両は「いさぶろう」「しんぺい」でも使われる車両で、その時のパンフレットであろう。車両は片側が一段高いお座敷になっていた。しかしお座敷にする必要はあったのか疑問である。ループの頂上付近から眼下に大畑駅が見えると聞いていたし、パンフレットにも書いてあり、先ほど確認することができなかったので今度こそと思って注意して見ていたのだが、今回も大畑駅を見ることはできなかった。先ほどの「えびの5号」で折り返したとき、ループの頂点を示す杭が線路から少し離れたところに建っているのに気付いたので、それを目印にしようと思っていたのだが、その杭も再び見つけることはできなかった。非常に悔しく思っている。そして大畑駅に到着。僕はここで降りる。おじさんはこのまま人吉まで行くようだ。
大畑駅に降りたときには雨がやんでいた。土砂降りだったら満足に歩き回ることもできないと思っていたがこれは幸運であった。大畑駅は完全に山の中にあり、周りには家一件見あたらない。駅の入り口には公衆電話がかろうじてあったが、そのほかには本当に何もないところである。駅舎もかなり古ぼけていて掲げてある時刻表もなんだか古くさかったが、さすがにダイヤだけは最新のものであった。駅の奥の方まで右にカーブしながら線路が延びている。先端までいってみたが草ぼうぼうであった。また駅舎と反対の方側、ホームと吉松方から来て引き上げ線へと向かう本線の間に、SLの車輪が飾ってあった。説明も書いてあったが忘れてしまった。日が落ちて辺りが暗くなってくる頃、遠くから列車の走行音が響いてきた。列車から駅が見えると言うことは駅から列車だって見えるはずであり、もう暗くなってきているから列車の明かりが見えるだろうと思い、何とか写真に撮れそうな明るさはあったのでカメラを構える。けれどもどの方向に見えるのかいまいちわからない。列車の音もどこから聞こえてくるのかどうもはっきりしないし一向に近づいてくる気配がなく、いつ見えるのかタイミングがわからない。5分以上カメラを構えて待っていたと思う。しかし結局列車を見つけることはできなかった。もしかしたら木が生い茂ってしまって見えなくなっているのだろうか。列車が駅に到着して僕が乗り込むときには辺りはすっかり日が落ちて真っ暗になっていた。後1ヶ月早かったら普通で駅に着いた時点ですでに暗くなっているだろうから、もしこのダイヤで訪れてみようと思われる方がいたら、このプランを実践するのは4月〜9月くらいが限度であろう事を注意して欲しい。
大畑からは「えびの6号」で今日の宿泊地である熊本に向かう。もう辺りはすっかり暗くなり、家や車の明かりが転々と見えるのみ。人吉からは球磨川沿いを走り、景色の良さが期待できたのだが残念だった。熊本のホテルは人吉で予約を入れて置いた。幸いにも駅の近くで安い所があったのでそのホテルに決めた。
5日目は熊本からスタートである。熊本8:31発の「あそ1号」に乗車する。この列車は本来3両編成のはずだが、この日は指定席車を1両増結した4両編成となっていた。最後尾の4号車自由席の更に最後尾の席に乗る。本来は1号車で前方の景色を眺めたいところだが1号車は指定席のため4号車から後ろの景色を眺めることにしたのである。
しばらく平地を走った後、いよいよ阿蘇の外輪山越えの急勾配に差し掛かる。エンジンのうなりは高くなっているのにスピードはぐんぐん落ちてくる。線路脇を眺めると33.3‰の勾配標識が見えた。車両が傾いているのもはっきりわかる。それでもキハ185系は老朽化してはいるが山岳路線向けに作られた車両だけあって、50キロ程度の速度を維持して急勾配をぐんぐん登る。かなり高度が上がってきたところで立野駅に進入すし、一休みした後バックで動き出す。後部の運転席では車掌が前方の安全を確認している。この状態で更に急勾配を3分ほど?登り、引き上げ線に入った後正常な向きで走行を開始する。そして更にしばらく登り勾配が続いた後、今度は下り勾配となって阿蘇のカルデラ内に入っていく。
阿蘇で一旦下車する。予定ではここからバスで阿蘇山西まで行き、そこからロープウェイで火口まで行ってみることにしていた。しかし、阿蘇のバスターミナルに行ってみると、阿蘇山にガス警報が出ていて、火口は立入禁止、ロープウェイも運行していないとの張り紙が張ってあるではないですか。これは困ったことになった。予定を変えてSL「あそBOY」でも迎えに立野へ引き返すかどうしようか悩んでいるうちに阿蘇山西行きのバスが行ってしまう。それでも決断がつかず時刻表をめくりながら今後の予定を考える。
あれこれ悩んだあげく、とりあえずロープウェイ乗り場のある阿蘇山西まで行ってみることにする。それで警報が解除されれば言うことなしなのだがとわずかな期待を持ちながらバスに乗る。終点のひとつ手前に草千里という広大な原っぱに馬(だったっけ?)が放し飼いにされていて、レストラン等もある場所があった。バスの終点の阿蘇山にしにはそんなに何もないので半数の人はここ草千里で下車していった。しかし僕は予定通り阿蘇山西まで行くことにする。しかし終点についてもやはり警報は解除されず、ロープウェイも動いていなかったし、徒歩で行くことも当然禁止されていた。仕方がないのでロープウェイ乗り場の土産物屋などを見て時間をつぶし、次に出るバスで阿蘇駅に引き返す。阿蘇駅に着くと、そこにはSL「あそBOY」が停車中であった。宮地行きの「あそBOY」は阿蘇駅でしばらく停車するのだが、ちょうどその場面に出会ったのである。せっかくだから写真を撮ったり機関車や客車を観察する。客車は「あそBOY」用の改造車で、内装も外観もレトロっぽくてそれでいてお洒落ななかなかのものであった。
「あそBOY」が発車していってしばらくすると、宮地方からゆっくりと普通列車がやってきた。この列車に乗って立野駅へと引き返す。来るときは特急で通り過ぎてしまったため、一度下車してスイッチバック等の写真を撮りたかったのでもう一度戻ることにしたのである。一度通ったスイッチバックをもう一度逆行して立野駅に到着した。
立野駅に降り立つが、この駅で交換する「あそ3号」に乗らないと4時間も後の「あそ5号」まで大分まで行けるまともな列車がないという状況なので、本当はもう少しこの駅でゆっくりしたいところだが、「あそ3号」の入線シーンのみをカメラに収めてその「あそ3号」に乗り込む。
途中からの乗車であるために窓際の席が空いているかどうかかなり不安であったが、何とか窓際「も」空いている席を見つける事ができた。まだ昼食を取っていなかったので車内販売の弁当で昼食を取る、といきたかったのだが何と車内販売の弁当は全て売り切れだという。何と言うことだ!結局大分までジュースとお菓子で我慢することになる。宮地駅では一仕事終えて待避線で休憩中の「あそBOY」を見ることができた。また宮地から豊後竹田辺りにかけて再度阿蘇の外輪山越えをすることになる。風景は山の中といった感じになるが、立野のスイッチバックと言ったような見所は得になく、難所をトンネルで抜けてしまうこともあってそれほど印象には残らなかった。
「あそ」の終着駅は別府だが、乗り継ぎ列車の座席確保を考え大分で下車。この旅2度目の大分駅に降り立つ。乗り継ぎ列車の「ソニック22号」の発車までには20分以上時間があるが、すでにホームに並んでいる人がかなりいたので僕も並ぶことにする。しばらくして派手な車体の「ソニック」が入線してきた。乗り込んでみると内装は外観以上に派手で、普通の特急列車とは思えない。JR九州もこんな車両をよく作ったものだと思った。乗車率はかなり高く、大分発車時点で満席に近い状態であった。5両では両数が不足気味なのではないかと思うが、JR九州の新型特急車両はデザイン重視で先頭車に貫通路がないため柔軟な増結が難しいという問題があるのではないかと思う。派手な車内でいまいち落ち着けないうちに小倉に到着。最終日は新幹線で帰るだけなので、これで今回の旅も終わったようなものである。
九州旅行もいよいよ終わり、あとは新幹線を使って帰るだけである。友人の家でゆっくりした後、南小倉駅まで送ってもらう。日田彦山線から来たと思われる気動車に乗って小倉駅へ。ここで予定の新幹線の発車までしばらく時間をつぶす。
予定時間が近づいたので新幹線ホームへと移動する。この新幹線は今回の旅で一番奮発した部分だと思う。小倉から名古屋までの新幹線(のぞみ)を使うことによる特別料金は7,700円であり、4万程度の予算の中ではかなりの部分を占めている。行きはムーンライト九州を使うことでこれだけの料金を節約できたわけで、改めて新幹線は高いと思った。
僕はまだ300系以降の新型車両に乗ったことがなかったので、この機会に乗ってみようと思ったのが新幹線で帰ろうと思った大きな理由の一つであり、どの車両にしようか少し迷ったが、やっぱり一番魅力のある500系で帰ることにした。500系「のぞみ」は300キロの高速で山陽路をとばす。噂通りほとんど揺れもなく、すばらしい車両だと思った。しかし、ほとんどビジネス向けの車両になってしまって、狭いサービスコーナーしか行くところがないのは寂しい気がする。3時間弱と言う早い時間で名古屋に到着。これだけの距離を移動したのにこんなに早くついてしまうとなんだか実感がわかない。「のぞみ」の早さを改めて認識した。
名古屋からはいつも利用する新快速で岐阜へ戻る。最後にいつも利用する混雑した新快速を利用するのは旅の終わりにふさわしくない気がして嫌なのだけれど、他に適当な手段がないのでやむを得ない。20分弱で岐阜に到着して今回の旅は終わった。
今回の九州旅行は、ほぼ目的を達成でき、充実した旅になったと思う。しかし、鉄道旅行とは違うが阿蘇山の火口まで行けなかったのは心残りであり、いつかまた行きたいと思っている。また、筑豊の廃線跡巡りは、鉄道のみを利用するのでは駅近くの部分しか巡ることができず、どうしても限界がある。行ってみたいところはいろいろあるのだが詳しく調査するにはどうしても車が必要で、実現するかどうか解らないがいつか車で行ってみたいと思っている。さらに、細かいところを考えれば、肥薩線の部分ではやはり「いさぶろう」「しんぺい」に乗りたかったし、人吉〜熊本を走る急行「くまがわ」にはアクアエクスプレス車というニューリアルされた車両が使われているらしく、この列車にも乗ってみたいので、この路線も次に九州に行ったときにはまた行ってみたいと思っている。
今回の旅は計画を立てるのが直前になってしまって、細かいところは考えられずに出発することになってしまったのだけれど、その割にはかなりうまく行ったと思う。宿泊を伴う遠距離の独り旅はこれが初めてだったのだが、行き当たりばったりで出発し、その時の状況に応じて計画を柔軟に変更できるというのは独り旅の特権であり、そのような旅もなかなか楽しいものであると思った。一応行きたいところや基本プランを決めておけば、後はその場に応じて計画を変更していけるので、またこのような独り旅をしてみたいと思う。
「鉄道廃線跡を歩くU、X、Y」他 宮脇俊三編著、JTB
「地図で歩く 鉄道の峠」 今尾恵介、けやき出版
「鉄ちゃんで行こう2」 小学館
「JR時刻表 1999年3月号」 弘済出版