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大任を出ると右カーブして添田線と分かれる。左のまっすぐ伸びる道路が添田線跡、右に分かれる道路が油須原線跡。 | 小学校裏のトンネルは崩され、道路になっていた。 |
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小学校前の県道を越えた所。道路脇に舗装された線路跡が現れる。手前が油須原方向。 | 左写真の反対方向(油須原方向)。 |
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舗装された線路跡は直ぐに横断する道路に突き当たって途切れる。この先は藪の中。 | 山の中腹を走る道路から路盤を見下ろすことが出来た。 |
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野原越トンネルの出口。トロッコ用路盤がトンネルの中にも敷かれていた。 | 野原越トンネル出口付近から本村トンネル入口が見える。トロッコ用に整備された路盤は再び草むしてきている。 |
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本村トンネル入口脇には柵がしてあって入口は見えなかった。 | 油須原線と書かれた跨線橋から本村トンネル出口を見る。 |
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本村トンネルを出ると、右カーブしながら切り通しを抜け、田川線に合流する。 | 赤村役場駐車場から田川線と油須原線の路盤がよく分かる。 |
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赤村役場の先の掘り割り。田川線の隣に路盤があったようにみえるが判然としない。 | 油須原駅駅舎。国鉄時代のままだった。 |
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油須原駅ホームから大任方向を見る。対向ホームとの間にも線路があったことが分かる。 | 油須原駅行橋方向。緩くカーブした長いホーム、広い構内は全盛期を思い起こさせる。 |
大任を出ると、右にカーブして添田線と分かれる。添田線と分かれて直ぐに築堤による上り坂になっていたようだが、この部分も道路に変貌していて築堤は残っていなかった。
そのすぐ先、大任小学校の裏の山を短いトンネルで抜けていたらしいが、トンネルは崩されて道路になっていた。
その小学校の裏の廃線跡道路は工事中で通れなかったので別の道で小学校の表に回る。小学校の表を走る県道は線路がオーバークロスする形になっていたと思われるが痕跡はなかった。
県道を越えた先はスポーツ施設に入る道の脇に舗装された線路跡が残っていた。しかしこの線路跡も直ぐに新しい道路に突き当たって途切れる。その先は藪の中に吸い込まれていて、辿ることが出来ない。
何とか線路跡に近づこうとしていろいろな道路を走り回ったが、細い道ばかりで車が止められなかったりして、結局山の中腹の道路から路盤をかすかに見下ろせただけで、この先赤村へと抜ける野原越トンネルの入り口は見つけられなかった。
曲がりくねった急勾配の県道を通って赤村へと移動し、トンネル出口を探す。赤村側の道路もわりと入り組んではいたがトンネル出口は直ぐに見つかった。路盤は新しいコンクリートで固められ、トロッコ用の線路がトンネル内にも続いている。この線路は観光用のトロッコを走らすために敷かれたものらしい。まだトロッコの走った形跡はなく、線路は再び草に覆われようとしていた。果たしてトロッコの走り出す日は来るのだろうか?
この先でもう1本、本村トンネルというトンネルを抜けるが、そのトンネルの入り口脇は柵が設けられていて立ち入り禁止となっていた。柵の手前からはトンネル入り口が見えない。こんな頑丈な柵が必要なほどマナーの悪い人がいるのだろうか?私はちょっと入口の写真を撮りたいだけなのに残念である。
本村トンネルを抜けた先からはトロッコの路盤は草もなくきれいになっていた。右カーブして切り通しを抜けると田川線と合流する。
赤村役場の駐車場から田川線を見下ろすことが出来たが、田川線の脇に油須原線の路盤が確保されていたのがよく分かる。トロッコ用に整備された路盤はここまで。この先しばらく田川線と平行して油須原へと続いていたのではないかと思ったが、油須原方向の深い掘り割り部分は草に覆われてしまっていた。(油須原までは1.5Km以上あるので、あるいはここで日田線に合流してしまって油須原まで線路を共用する予定だったのだろうか?)
油須原駅は現在平成筑豊鉄道の駅として営業しているが、駅舎もホームも国鉄時代のままだった。広い構内に長いホームは国鉄時代の貫禄十分だが、中線などは撤去されていてその広さをもてあましていた。次々と消えていった筑豊の路線の中で、この田川線は幸運にも平成筑豊鉄道に転換されて生きながらえた路線であり、末長く現役でいて欲しいものである。