山野線廃線調査 6

調査結果

山野〜郡山八幡

郡山八幡手前の牛尾川橋梁跡。道路橋に掛け替えられている。 牛尾川橋梁の欄干。汽車の形になっていた。
郡山八幡駅跡。道路脇にスペースが設けられている。奥が栗野方向。 郡山八幡駅跡を栗野方向から見る(奥が水俣方向)。

山野駅跡から先は道路化されている。しかし、その道路幅は中途半端で1.5車線程度。すれ違いは十分可能ではあるが、センターラインはない。実は道路幅自体は2車線分あるのだが、0.5車線分は歩道としてポールで仕切られているため車は入れない。地元の車は慣れているから全くスピードを緩めることなくすれ違うので慣れていない私は怖かった。速度制限はかかっていなかったと思うので流れはおそらく60Km近かったのではないだろうか。

郡山八幡駅の手前の牛尾川を渡っていた橋梁は道路橋に変わっていたが、欄干が汽車の形になっていて鉄道が通っていたことを示していた。

郡山八幡駅跡周辺だけ周りにある程度の家が建っていて、そこに駅があったという雰囲気を漂わせている。道路脇に待避所?が作られていて、これが駅の敷地だったのだろうと思えた。その他には駅跡を示すような物は見あたらない。

郡山八幡〜薩摩大口

薩摩大口駅跡に建つふれあいセンター。 薩摩大口駅跡から栗野方向を見る。道路が線路跡と思われる。

郡山八幡から先も道路になっていて、まっすぐに薩摩大口へと進む。

薩摩大口駅跡はふれあいセンターを中心とした公共施設群になっていた。かなり大きな駅だった様子がうかがえる。ここから宮之城線が分岐していたから、車両基地などが置かれていたのではないかと想像できる。

ふれあいセンターの中に鉄道資料館が作られていたのだが、訪れたのが日没後だったためすでに閉館した後だったのが残念だった。車掌車が保存されているという情報があったので探してみたのだが見つけられなかった。もう無くなってしまったのだろうか。

薩摩大口〜西菱刈

薩摩大口を出てすぐに国道の跨線橋が残っている。 宮之城線との分岐点。道路が山野線跡。宮之城線はまっすぐ正面に進んでいた。
宮之城線との分岐点。宮之城線の路盤は手付かずのようだった。 市三川の橋梁は「ふれあい橋」という名の立派な道路橋に変わっている。奥が水俣方向。
市三川の橋梁の栗野側に橋の完成記念碑があり、碑文で山野線に触れられている。(文章部分の拡大画像へリンク) 市三川の橋梁。護岸工事も行われたようで鉄道橋の痕跡は何もなかった。奥が水俣方向。
西菱刈駅跡。奥が栗野方向。 西菱刈駅跡。奥が水俣方向。

薩摩大口駅跡を出るとその先はセンターラインのある2車線道路となっている。駅を出てすぐの場所で国道が道路の上を通っている場所がある。道路同士が交差点もなく立体交差していて不思議な光景であるが、線路跡を道路にした証拠といえる。この辺りは山野線と平行して宮之城線の線路が敷かれていたと思われ、立体交差部分の幅も充分2車線道路が通れるだけ確保されている。

薩摩大口駅から1.5Kmほど進んだところで宮之城線が分岐していた。宮之城線がまっすぐに進み、山野線は左カーブしていく線形だったようだ。線路跡の道路は山野線後に沿って左カーブしていて、正面には宮之城線の路盤が手つかずと思われる状態で残されていた。

ここからしばらく進むと市三川を渡る。川幅はかなりあり、現役時代はしっかりした橋梁がかけられていたと思われるが、道路橋(ふれあい橋というらしい)に変わり、鉄道橋の痕跡は消えていた。しかし橋のたもとには記念碑が作られ、その碑文で以前山野線の橋梁があったことが触れられていた。

線路跡の道路は大きく左にカーブして別の道路に合流。その先が西菱刈駅跡である。駅だったと思われる部分は道路が広くなっている。駅前だったと思われる場所は商店などが残っていて駅だった頃の雰囲気を残している。

西菱刈〜菱刈

菱刈駅跡の一角に車掌車などが展示されている。 車掌車などの脇に駅跡を示す記念碑があった。(説明文の拡大画像にリンク)
菱刈駅跡の様子。線路跡は道路になっている。 菱刈駅駅前だったと思われる場所。狭い道路沿いに民家が密集している。

菱刈駅跡は鉄道記念公園が設置されていた。車掌車や転轍機が展示されていた他、なぜか湯之尾駅の駅名票が倒れた状態で残っていた。記念碑も建てられ、山野線の歩みが記されていた。

そのほかの駅だったと思われる部分は広場などとして残っていた。駅前だったと思われる場所は狭い道路沿いに住宅が密集している。駅周辺が菱刈町の中心部であり、役場なども置かれている。


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