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別海村営軌道の車両とターンテーブル跡。 | 別海村営軌道風連線の説明版 |
奥行臼駅のすぐ近くに旧別海村営軌道風連線の車両やターンテーブルが保存されていた。開拓地との物資輸送のために建設されたという意味で標津線と同じ役割を果たしていたものである。よって標津線ではないがここに紹介しておく。
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奥行臼〜別海の途中の丘で腕木式信号機を発見。おそらく移設されたものだろう。 | 奥行臼(写真奥)から伸びてきた路盤。別海駅の300mくらい手前。 |
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別海駅手前部分の路盤は舗装された歩道となっていた。右上写真の反対側。 | 別海駅手前の橋。人道橋として利用されていた。左写真のすぐ先。 |
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別海駅跡に建った多目的交流館「ぷらと」。 | 「ぷらと」の隣は広場になっていた。 |
奥行臼から別海に向かっていると途中の丘のような場所に腕木式信号機が建っているのを発見した。しかし駅でもない所に腕木式信号機が建っているのはおかしいのでおそらく廃止後にどこかの駅から持ってきたのだろう。地形的にも建っている場所は線路沿いとは思えなかった。
別海駅手前で川を渡っていたのだが、その川の前後の部分は舗装された歩道になっていた。橋桁は真っ赤に塗られてよく目立っていた。鉄道橋の橋桁をそのまま塗り替えて使っているそうである。
別海駅跡は多目的交流館「ぷらと」が建っていた。ここは商工会、バス待合所などいろいろな用途を使われていた。また、「ぷらと」を建てただけでは広い構内跡を使い切れなかったようで、道を挟んだ隣は何もない広場になっていた。
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平糸から1.8Kmほど先。森の中を抜けてくる線路跡がはっきり残っていた。写真奥が平糸方。 | 左写真の反対、春別側。左にカーブして平地へと下っていく線路跡がよく分かる。 |
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春別駅跡の「中春別ヘルスパーク」。 | 中春別ヘルスパーク。そこそこの広さの公園だった。 |
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春別の先の別海跨線橋上から厚床側を見下ろす。農道として利用されているようである。 | 中標津駅跡のバスセンター。今も地域交通の拠点である。 |
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バスセンターの向かい。何の建物だったか忘れた、と書いていたら、中標津経済センター「なかまっぷ」であるとの情報を頂きました。 |
標津線は平野部を走っていた路線と思っていたが、厚床〜中標津は意外にアップダウンがあったようだ。高い山はないのだが小高い丘が連続しているという感じである。線路も意外に曲がりくねっている。
平糸駅は中標津への道道沿いにはなかったようで、見逃してしまった。後で頂いた情報では駅舎まで行くまともな道はなく、夏は草に覆われていてたどり着くことは困難だが、駅舎とホームがいい感じで残っているそうである。
平糸の先で線路跡と交差する脇道にはいると、森の中を抜けてきて平地へと下っていく線路跡がはっきり残っていた。
春別駅跡は「中春別ヘルスパーク」という公園に変わっていた。
春別の先で路盤は道路をくぐって西側に移る。道路の跨線橋(別海跨線橋)は今でも残り、その下の路盤跡も車の跡がはっきり残っていて、この部分は農道として利用されているようだった。
線路はこの後西から回り込むように中標津の町に入っていた。中標津駅跡は中央に道路が通り、両脇はバスセンターなどになっていた。バスセンターはかなり大規模で、鉄道無き後も地域交通の拠点で有り続けていることが分かった。
中標津駅跡は農協の店舗「あ・る・る」、総合文化会館、交通センター、中標津経済センター「なかまっぷ」などが建ち、活気を帯びている。